2008年12月22日

昔の人の言葉

◇絵葉書

 最近、調べ物をしていて、明治大正時代の絵葉書を漁っています。たくさんの絵葉書を見ていると、その時代の出来事やニュース、報道の様子が分かって面白い。絵葉書は地震などの大きな出来事、観光地の様子、外国の都市など人々の関心が高いものを、ひと目でわかる画像で伝えるニュース媒体だったことがよく分かります。絵葉書は昔のネット、テレビなんですね。

 面白いのは、絵葉書に書かれた通信文です。100年近く昔の手紙とはいえ、住所も名前も書いてある私信を読むのは気が引けますが、字を見ると読んでしまう性質なのでいろいろ読みました。

 その人の人生の深淵がのぞけるようなものもありましたが、多くはあいさつやお礼、消息を尋ねるものでした。親戚や知人に電話する感じですね。絵葉書なので文面は短いのですが、しんと心にしみるものがありました。

 ほとんどがひらがなの文章だったり、表現が稚拙だったり、字もあまり上手ではない、高い教育を受けた人が書いたとは思えないものが多いのですが、丁寧な言葉で礼を述べ、近況を伝え、相手を気遣う言葉がしっかりと伝わって来る感じです。田舎に行って祖父母やおじ、おばに声をかけられたような気持ちになります。

◇円谷幸吉

 読んでいて、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉選手の遺書を思い出しました。

  父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅  も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうご  ざいました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうござい  ました。・・・・・・

 「美味しゆうございました」を繰り返す簡単な表現で家族への思い、感謝の気持ちを述べ、短い中に無限の気遣いを綴った遺書は、実直で私心のない人柄をうかがわせるものです。

 明治、大正期の絵葉書に綴られた言葉にも同じような、実直さ、相手への気遣いが感じられました。遺書と絵はがきと比べるのか、と叱られそうですが、同じような心地よさ、というと語弊がありますが、伝わってくるものが似ているのです。

◇学力低下

 前にも書きましたが、大学を回っていると学生の学力低下を嘆く声に満ちています。実際にレポートを書かせてみた経験でも、すごいことになっています。もちろん大学生として恥ずかしくない文章を書く学生もいますが、小中学生程度の文章力の学生もいます。その差はとても大きく、彼らを一緒に教えるのは大変だろうなと思います。

 文章力のない学生のレポートを読んでみると、大きく2つのタイプに分かれるように思えました。1つは考えては見たが、考えたことを十分に表現できない、あるいは書いているうち表現に詰まってしまうタイプ、もう1つは、考える基盤、つまり知識や考える方法が足りないために、400字を埋めることすら苦労するタイプです。そこで、どこかで聞いたことのあるフレーズをつないで人の言葉を使ってまとめようとします。どんな内容でも「ぼくも頑張りたいと思います」という小学生のようなまとめで終わったりします。

 第1のタイプは、ある程度自分の考えをまとめているので、考えを整理し述べたいことを簡潔な言葉でまとめる、説明のための具体的な事例を示す、パラグラフとそのつながりを考える――といったことを教えれば、文章は書けるようになりそうです。

 第2のタイプは、考えて意見をまとめるということがよく分かっていないので、素材に対して自分は何を感じたか、どう思ったかについてのメモを作らせるところから始めないとだめなようです。メモについて「なぜ」という質問を繰り返して、対象を理解させることをさせないと、文章には至らないように思えます。

 でも、なんでこんな風になってしまったのでしょう。彼らとて、日常的ではクラスメートやクラブ仲間と話し、メールをやり取りしています。話ができなくて生活に困ったということもないようです。反論したり、異議を唱えたりするのですから、考えがないわけではありません。その場その場の判断はできるけれど、複雑な事柄、立体的な事柄を頭の中で操作する訓練ができていないのです。

◇人と接すること

 その原因は、国語の指導が悪いというのも大きな原因だと思いますが、彼らが立場の違う人たちと話す経験が少ないことが大きな要因だと思います。仲間や友達のような親、当たり障りのないことしか言わない教員とばかり話していると、考えや表現は簡単になっていきます。私たちが子どものころは、知らないおじさんやら近所のおっさん、怖い先生などいろんな大人に接して、相手との距離や接する態度について考え、場面、場面で考えや態度を切り替えて、仲良くなったり、危険を避けたりしてきました。今の学生はそういう機会が少ない。だから考え表現する訓練ができていないのではないかと思います。

 明治大正時代の絵葉書の通信文を読んで感じた「しんと心にしみる」「言葉がしっかりと伝わって来る」感じは、人と向かい合うことを心得た人たちだからではないか、と思うのです。人と向かい合うから、きちんと話そうとし、相手を気遣う。そのためにきちんと物事を理解し、気持ちを相手に伝えようとする。それは頭のよしあしとか、学歴のよしあしとは関係のないことだと思えます。そういう訓練が自然にできる仕組みを作っていかないと、学力低下も止まらないように思います。
posted by 平野秋一郎 at 16:18| 東京 ☁| Comment(28) | TrackBack(1) | 学力低下 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月11日

大学は厳しいなぁ

 大学のeラーニングを広める活動で、全国の大学を巡っているが、どの大学でも「厳しいなぁ」「大変だなぁ」と同情してしまう。先生方に学生の行動や授業の様子を聞くと驚くようなことばかりで、最近では「こちらもですか」と驚かなくなってしまった。先生方も「すごいことになってますよ」などと苦笑しているけれど、困惑と寂しさが透けて見えます。
 
 大学生は評判が悪い。「分数ができない」と学力低下が問題になってから、「本が読めない」「日本語が分からない」などと揶揄し、慨嘆する本やら報道やらが出て、大学生の評価は地に落ちたように見える。テレビのバラエティ番組やクイズ番組では、相変わらず有名大学出身者を持ち上げているが、一方で有名大学出身というアナウンサーやタレントのレベルの低さがちゃんと実態を示しているのだからおかしい。

 芸能の世界は何でも消費してしまうからよいのだろうが、大学はそうは行かない。大学生の学力は相当すごいと思う。

 ある大学の学生に作文を書かせたが、日本語になっていない作文、小学生レベルのレポートが1人や2人ではなかった。たまに大学生らしいレポートに遭遇するとホッとするくらいだった。それくらいひどい。

 この大学だけの問題ではない。以前授業を見学した大学では、学生が英語でレポートを書いて発表した。英文は中学校レベルだったが、それでも自分で書いた英文である。英文などほとんど書けなかった学生に曲がりなりにも英文を書かせた先生の努力と指導力はすごいと思った。そこで学生の1人に「よかったね。ちょっと見せて」と声をかけた。にっこり見せてくれた英文のレポートには、全部、カタカナでルビが振ってあった。適当に読んで間違うどこかの首相よりは真摯だが、カタカナ英語には驚いてしまった。

 先日、地方の公立大学の英語の先生に会った。学力差はひどい、と言う。聞くと「TOEICで100点台から700点台までいる」と言う。つまり小中学生から大学生までが一緒に学んでいるということだ。これで授業をするのは大変だ。

 「日本語が分からない」「長文が読めない」という話もよく聞く。「学ぶ目的を持て」と諭したら「目的って何ですか」と聞かれたという話もある。冗談でも、話を面白くするための誇張でもない。訪ねた大学の多くでこういう「小話」を聞く。国公立も私立も、大学の規模も関係なく、学力低下エピソードがある。先生方も、あいさつ代わり、あるいは話を盛り上げ、場を和やかにしようと「困ったもんだ」と苦笑とともに語ることが多いが、「哀しい」と顔に書いてある。

 学力低下の原因の第1は、大学入試の多様化だ。今の大学の入試はすごいことになっている。入試が何種類もある。一般入試、AO入試、推薦入試などがあり、それに加えて「センター試験利用入試」だの「特別選抜入試」だのと細かく分かれ、それに「12月入試」「1月入試」だの、「特別枠」「スポーツ枠」だのとオプションが付く。多い大学だと、10パターン前後の入試がある。

 つまり「どれかで入れますよ」ということだ。少子化の時代、学生集めは大学の存亡を左右する大問題。教育改革も教育の質の向上もない。最大の課題は定員を埋めることというのが大学業界の現状なんですね。大学は全入時代なのである。だから、大学で学ぼうという意思、大学で学ぶに足る学力、大学で学ぶ目標画ない学生も入ってくる。

 先日、私立大学の先生に、現状を打開するためにeラーニングを活用したい、と相談を受けた。先生は「今は合格率100%」「誰でも入れる」と言い、「勉強は嫌いと公言する学生がいる」「工学系の学科なのに物理が嫌いという学生がいる」と嘆いた。学力低下を何とかするためにeラーニングを使いたい、と必死だった。

 学力低下は、大学の自業自得だが、そうとばかりも言っていられない。教育の構造を変えなければならないくらい大変なことだ。だが、今の文部科学省に対応できるとは思えない。現場から始めなければと思う。

 学力低下にはもう1つの原因があると感じています。それは次の機会に。

posted by 平野秋一郎 at 18:12| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学力低下 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月02日

馬から落ちて

 最近、テレビを見ていてしばしば「いにしえの昔の武士のさむらいが馬から落ちて落馬して・・・」という文章を思い出します。子どものころ、重複表現をした時、親が「馬から落ちて落馬して〜」と拍子をつけて囃したせいか、重複表現を聞くと出てきます。

 近ごろのテレビ、特にナレーションは重複表現をはじめとしたおかしな表現が満載ですね。ナレーションを書いている人のレベルが低いのか、デスクの能力が足りないのか分からないがひどい。キャスターや記者の発言もおかしなものがたくさんあって、時々聞いていられなくてチャンネルを変えてしまうことがある。

 ライブの場合は瞬間、瞬間だから仕方ないのかな、と思ってみたが、そうでもない。明らかにおかしな言葉を発する人がいる。それも、したり顔で言うからなおさらおかしい。その都度のことで、いちいち覚えていませんが、インドネシアの津波の現場報告で「怒涛のような波が押し寄せてきた」と報告する記者が記憶に鮮明です。思わず「それが怒涛だろう」と突っ込んでしまいました。昨日聞いたのは「銃声の音が聞こえた」というので、これものけぞった。

 美しい日本語だの、正しい表現などと息巻くつもりもないし、言葉は作るものとも思うので、いろんな表現があってよいと思うが、もうちょっと何とかならないのだろうか。

 何で重複表現をするのか、考えたことがある。若い人たち、いや若くない人も最近は強調するときには、強い言葉、気持ちを乗せられる音を使いたがるように思います。繰り返しや促音など印象の強い音、力を込められる音を使いたがる。まあ、そうですよね。激しく怒った時は「いけませんわ」とは言わない。「バカ、死ねッ!!!」と言いますね。

 昔は「完全」という言葉を使って、これは普段使われる言葉では最上級でした。しかし、いつの日からか「完璧」という言葉が普通に使われるようになった。私にとって「完璧」とは神の業に等しい完全さという感じがあって、使うことはほとんどなかったから、はじめは違和感がありました。しかし若者は「カンペッキッ」と喜んで使っている。気分を込めやすいのでしょう。

 しかし、以前は、それほど強い表現は使わなかった。腹を立てた時、必ずしも強い表現をするわけではなかった。皮肉ったり、からかったり、さまざまな罵詈雑言で鬱憤を晴らした。慇懃無礼、面従腹背、ほめ殺しなどなど、いろんな言葉、表現で相手をやっつけ、嘲笑した。
最近はそういう悠長なことがなくなった。いや、そういう表現を知らないのでしょう。、強く表現したい時は、数少ない言葉から適当な言葉選ばなければいけないから、繰り返したり、重複させたりするのではないか、と思います。

 電車の車掌さんがよく言うのは「次の停車駅は***に停まります」ですね。「次の停車駅は***です」では、力が入らないのでしょうね。簡潔な表現は物足りないと感じるのかもしれません。今の学生の作文でも、少ない語彙で書くので、繰り替えしやくどい表現が見られます。読んでいて、うるさく感じます。やはり、子どものころから、じじばばやら近所のおじさんやらの、いろんな表現を聞いていないからという気がします。

 ま、漢字をちゃんと読めない首相が偉そうに差配する国だから仕方がないのかも知れないけど、やっぱり耳に心地よい、あるいはハッとするようなステキな日本語を聞きたいです。
ラベル:馬から落ちて
posted by 平野秋一郎 at 19:53| 東京 ☁| Comment(11) | TrackBack(0) | 日本語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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