2008年12月22日

昔の人の言葉

◇絵葉書

 最近、調べ物をしていて、明治大正時代の絵葉書を漁っています。たくさんの絵葉書を見ていると、その時代の出来事やニュース、報道の様子が分かって面白い。絵葉書は地震などの大きな出来事、観光地の様子、外国の都市など人々の関心が高いものを、ひと目でわかる画像で伝えるニュース媒体だったことがよく分かります。絵葉書は昔のネット、テレビなんですね。

 面白いのは、絵葉書に書かれた通信文です。100年近く昔の手紙とはいえ、住所も名前も書いてある私信を読むのは気が引けますが、字を見ると読んでしまう性質なのでいろいろ読みました。

 その人の人生の深淵がのぞけるようなものもありましたが、多くはあいさつやお礼、消息を尋ねるものでした。親戚や知人に電話する感じですね。絵葉書なので文面は短いのですが、しんと心にしみるものがありました。

 ほとんどがひらがなの文章だったり、表現が稚拙だったり、字もあまり上手ではない、高い教育を受けた人が書いたとは思えないものが多いのですが、丁寧な言葉で礼を述べ、近況を伝え、相手を気遣う言葉がしっかりと伝わって来る感じです。田舎に行って祖父母やおじ、おばに声をかけられたような気持ちになります。

◇円谷幸吉

 読んでいて、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉選手の遺書を思い出しました。

  父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅  も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうご  ざいました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうござい  ました。・・・・・・

 「美味しゆうございました」を繰り返す簡単な表現で家族への思い、感謝の気持ちを述べ、短い中に無限の気遣いを綴った遺書は、実直で私心のない人柄をうかがわせるものです。

 明治、大正期の絵葉書に綴られた言葉にも同じような、実直さ、相手への気遣いが感じられました。遺書と絵はがきと比べるのか、と叱られそうですが、同じような心地よさ、というと語弊がありますが、伝わってくるものが似ているのです。

◇学力低下

 前にも書きましたが、大学を回っていると学生の学力低下を嘆く声に満ちています。実際にレポートを書かせてみた経験でも、すごいことになっています。もちろん大学生として恥ずかしくない文章を書く学生もいますが、小中学生程度の文章力の学生もいます。その差はとても大きく、彼らを一緒に教えるのは大変だろうなと思います。

 文章力のない学生のレポートを読んでみると、大きく2つのタイプに分かれるように思えました。1つは考えては見たが、考えたことを十分に表現できない、あるいは書いているうち表現に詰まってしまうタイプ、もう1つは、考える基盤、つまり知識や考える方法が足りないために、400字を埋めることすら苦労するタイプです。そこで、どこかで聞いたことのあるフレーズをつないで人の言葉を使ってまとめようとします。どんな内容でも「ぼくも頑張りたいと思います」という小学生のようなまとめで終わったりします。

 第1のタイプは、ある程度自分の考えをまとめているので、考えを整理し述べたいことを簡潔な言葉でまとめる、説明のための具体的な事例を示す、パラグラフとそのつながりを考える――といったことを教えれば、文章は書けるようになりそうです。

 第2のタイプは、考えて意見をまとめるということがよく分かっていないので、素材に対して自分は何を感じたか、どう思ったかについてのメモを作らせるところから始めないとだめなようです。メモについて「なぜ」という質問を繰り返して、対象を理解させることをさせないと、文章には至らないように思えます。

 でも、なんでこんな風になってしまったのでしょう。彼らとて、日常的ではクラスメートやクラブ仲間と話し、メールをやり取りしています。話ができなくて生活に困ったということもないようです。反論したり、異議を唱えたりするのですから、考えがないわけではありません。その場その場の判断はできるけれど、複雑な事柄、立体的な事柄を頭の中で操作する訓練ができていないのです。

◇人と接すること

 その原因は、国語の指導が悪いというのも大きな原因だと思いますが、彼らが立場の違う人たちと話す経験が少ないことが大きな要因だと思います。仲間や友達のような親、当たり障りのないことしか言わない教員とばかり話していると、考えや表現は簡単になっていきます。私たちが子どものころは、知らないおじさんやら近所のおっさん、怖い先生などいろんな大人に接して、相手との距離や接する態度について考え、場面、場面で考えや態度を切り替えて、仲良くなったり、危険を避けたりしてきました。今の学生はそういう機会が少ない。だから考え表現する訓練ができていないのではないかと思います。

 明治大正時代の絵葉書の通信文を読んで感じた「しんと心にしみる」「言葉がしっかりと伝わって来る」感じは、人と向かい合うことを心得た人たちだからではないか、と思うのです。人と向かい合うから、きちんと話そうとし、相手を気遣う。そのためにきちんと物事を理解し、気持ちを相手に伝えようとする。それは頭のよしあしとか、学歴のよしあしとは関係のないことだと思えます。そういう訓練が自然にできる仕組みを作っていかないと、学力低下も止まらないように思います。
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posted by 平野秋一郎 at 16:18| 東京 ☁| Comment(28) | TrackBack(1) | 学力低下 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月11日

大学は厳しいなぁ

 大学のeラーニングを広める活動で、全国の大学を巡っているが、どの大学でも「厳しいなぁ」「大変だなぁ」と同情してしまう。先生方に学生の行動や授業の様子を聞くと驚くようなことばかりで、最近では「こちらもですか」と驚かなくなってしまった。先生方も「すごいことになってますよ」などと苦笑しているけれど、困惑と寂しさが透けて見えます。
 
 大学生は評判が悪い。「分数ができない」と学力低下が問題になってから、「本が読めない」「日本語が分からない」などと揶揄し、慨嘆する本やら報道やらが出て、大学生の評価は地に落ちたように見える。テレビのバラエティ番組やクイズ番組では、相変わらず有名大学出身者を持ち上げているが、一方で有名大学出身というアナウンサーやタレントのレベルの低さがちゃんと実態を示しているのだからおかしい。

 芸能の世界は何でも消費してしまうからよいのだろうが、大学はそうは行かない。大学生の学力は相当すごいと思う。

 ある大学の学生に作文を書かせたが、日本語になっていない作文、小学生レベルのレポートが1人や2人ではなかった。たまに大学生らしいレポートに遭遇するとホッとするくらいだった。それくらいひどい。

 この大学だけの問題ではない。以前授業を見学した大学では、学生が英語でレポートを書いて発表した。英文は中学校レベルだったが、それでも自分で書いた英文である。英文などほとんど書けなかった学生に曲がりなりにも英文を書かせた先生の努力と指導力はすごいと思った。そこで学生の1人に「よかったね。ちょっと見せて」と声をかけた。にっこり見せてくれた英文のレポートには、全部、カタカナでルビが振ってあった。適当に読んで間違うどこかの首相よりは真摯だが、カタカナ英語には驚いてしまった。

 先日、地方の公立大学の英語の先生に会った。学力差はひどい、と言う。聞くと「TOEICで100点台から700点台までいる」と言う。つまり小中学生から大学生までが一緒に学んでいるということだ。これで授業をするのは大変だ。

 「日本語が分からない」「長文が読めない」という話もよく聞く。「学ぶ目的を持て」と諭したら「目的って何ですか」と聞かれたという話もある。冗談でも、話を面白くするための誇張でもない。訪ねた大学の多くでこういう「小話」を聞く。国公立も私立も、大学の規模も関係なく、学力低下エピソードがある。先生方も、あいさつ代わり、あるいは話を盛り上げ、場を和やかにしようと「困ったもんだ」と苦笑とともに語ることが多いが、「哀しい」と顔に書いてある。

 学力低下の原因の第1は、大学入試の多様化だ。今の大学の入試はすごいことになっている。入試が何種類もある。一般入試、AO入試、推薦入試などがあり、それに加えて「センター試験利用入試」だの「特別選抜入試」だのと細かく分かれ、それに「12月入試」「1月入試」だの、「特別枠」「スポーツ枠」だのとオプションが付く。多い大学だと、10パターン前後の入試がある。

 つまり「どれかで入れますよ」ということだ。少子化の時代、学生集めは大学の存亡を左右する大問題。教育改革も教育の質の向上もない。最大の課題は定員を埋めることというのが大学業界の現状なんですね。大学は全入時代なのである。だから、大学で学ぼうという意思、大学で学ぶに足る学力、大学で学ぶ目標画ない学生も入ってくる。

 先日、私立大学の先生に、現状を打開するためにeラーニングを活用したい、と相談を受けた。先生は「今は合格率100%」「誰でも入れる」と言い、「勉強は嫌いと公言する学生がいる」「工学系の学科なのに物理が嫌いという学生がいる」と嘆いた。学力低下を何とかするためにeラーニングを使いたい、と必死だった。

 学力低下は、大学の自業自得だが、そうとばかりも言っていられない。教育の構造を変えなければならないくらい大変なことだ。だが、今の文部科学省に対応できるとは思えない。現場から始めなければと思う。

 学力低下にはもう1つの原因があると感じています。それは次の機会に。

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2008年12月02日

馬から落ちて

 最近、テレビを見ていてしばしば「いにしえの昔の武士のさむらいが馬から落ちて落馬して・・・」という文章を思い出します。子どものころ、重複表現をした時、親が「馬から落ちて落馬して〜」と拍子をつけて囃したせいか、重複表現を聞くと出てきます。

 近ごろのテレビ、特にナレーションは重複表現をはじめとしたおかしな表現が満載ですね。ナレーションを書いている人のレベルが低いのか、デスクの能力が足りないのか分からないがひどい。キャスターや記者の発言もおかしなものがたくさんあって、時々聞いていられなくてチャンネルを変えてしまうことがある。

 ライブの場合は瞬間、瞬間だから仕方ないのかな、と思ってみたが、そうでもない。明らかにおかしな言葉を発する人がいる。それも、したり顔で言うからなおさらおかしい。その都度のことで、いちいち覚えていませんが、インドネシアの津波の現場報告で「怒涛のような波が押し寄せてきた」と報告する記者が記憶に鮮明です。思わず「それが怒涛だろう」と突っ込んでしまいました。昨日聞いたのは「銃声の音が聞こえた」というので、これものけぞった。

 美しい日本語だの、正しい表現などと息巻くつもりもないし、言葉は作るものとも思うので、いろんな表現があってよいと思うが、もうちょっと何とかならないのだろうか。

 何で重複表現をするのか、考えたことがある。若い人たち、いや若くない人も最近は強調するときには、強い言葉、気持ちを乗せられる音を使いたがるように思います。繰り返しや促音など印象の強い音、力を込められる音を使いたがる。まあ、そうですよね。激しく怒った時は「いけませんわ」とは言わない。「バカ、死ねッ!!!」と言いますね。

 昔は「完全」という言葉を使って、これは普段使われる言葉では最上級でした。しかし、いつの日からか「完璧」という言葉が普通に使われるようになった。私にとって「完璧」とは神の業に等しい完全さという感じがあって、使うことはほとんどなかったから、はじめは違和感がありました。しかし若者は「カンペッキッ」と喜んで使っている。気分を込めやすいのでしょう。

 しかし、以前は、それほど強い表現は使わなかった。腹を立てた時、必ずしも強い表現をするわけではなかった。皮肉ったり、からかったり、さまざまな罵詈雑言で鬱憤を晴らした。慇懃無礼、面従腹背、ほめ殺しなどなど、いろんな言葉、表現で相手をやっつけ、嘲笑した。
最近はそういう悠長なことがなくなった。いや、そういう表現を知らないのでしょう。、強く表現したい時は、数少ない言葉から適当な言葉選ばなければいけないから、繰り返したり、重複させたりするのではないか、と思います。

 電車の車掌さんがよく言うのは「次の停車駅は***に停まります」ですね。「次の停車駅は***です」では、力が入らないのでしょうね。簡潔な表現は物足りないと感じるのかもしれません。今の学生の作文でも、少ない語彙で書くので、繰り替えしやくどい表現が見られます。読んでいて、うるさく感じます。やはり、子どものころから、じじばばやら近所のおじさんやらの、いろんな表現を聞いていないからという気がします。

 ま、漢字をちゃんと読めない首相が偉そうに差配する国だから仕方がないのかも知れないけど、やっぱり耳に心地よい、あるいはハッとするようなステキな日本語を聞きたいです。
ラベル:馬から落ちて
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2008年11月28日

理念なき教育理念

 驚きました。

 11月26日付けの読売新聞朝刊に、前橋市立前橋工科大学が、2008年度の学生便覧に載せた「教育理念」が岡山大学の理念を無断でそのまま引用したという記事がありました。江守さんという学長が「作成者が忙しさから引用してしまったと認識している。学生に申し訳ない」と話したと書かれているから本当なんでしょうね。

 あきれて何も言えませんね。

 いま大学は危機です。少子化につぶされないよう、誰でも入れるようにいろんな入試タイプを編み出して、恥も外聞もなく学生をかき集めた。その結果、大学で学ぶに足る学力も意欲も、学ぶ目標もない学生が集まって困っている。理念なき学生集めの結果です。

 大学の先生は見栄っ張りなのか、建前好きなのか、足元を見ようとせずに高邁な理念やら研究至上主義を標榜している人が多いように見えます。その割には、経営的な判断から、理念なき学生集めに走る。

20年も前に、国公立大学の受験機会の複数化が行われました。AグループだのBグループだのという仕分けですね。その時、学長たちは東大と同じAに入ろうと右往左往しました。「わが大学に入りたいという意思を持つ学生がほしい」と建前では言いながら、東大と離れたら大変と、学生集めに都合の良い位置を占めようと大騒ぎでした。そこには自分の大学を良くすることで学生を集めるようという矜持、独自の教育理念を感じさせるものはありませんでした。

 だから今回のことも、やっぱりね、という感じです。それより学長の「作成者が忙しさから引用してしまったと認識している」という他人事のような発言にあきれますね。忙しければ盗作してもいいのでしょうか。それが言い訳になると思っているらしいのが、こっけいですね。著作権保護の意識すら微塵もない学長、だから教員も理念どころか、遵法意識すらないのだなと納得したことでした。


ラベル:大学 教育
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2008年11月25日

ロザン宇治原の発見

 クイズ番組で物知りとして人気急上昇のロザン宇治原さんが、11月21日付けの読売新聞夕刊に「人に話すのが暗記法」と書いていました。おすすめの暗記法は読書でなく、「人に言うこと」と言っています。

 宇治原さんは、芸人仲間と移動しているバスの中で、仲間に「クイズ出して」と言われて、次々と問題を出しているそうです。そこで気付いたのは「覚えているから人に言ってるのではなく、人に言ってるから覚えてるのでした」と書いています。

 やはり、と納得した思いでした。というのは、大学のeラーニングを取材していて、学生にコンテンツ作りを手伝わせると学生の理解度が上がると、いくつかの大学で聞いたからです。テスト問題を作らせる。すると学生は、問題が間違ってはいけないと賢明に調べるのだそうです。その学生もそのことは一応、学習している。でも、間違わないためには、確認し、理解しなければならないと考えたということです。要するに、学生は、先生の出す試験には答えられるが、正確には理解していない、あるいは理解している自信がない、つまり身に付いていないということです。

 自分を振り返れば、そうだな、と思います。分かっているつもりでも、ちゃんと説明せよ、と言われると、突然あやふやなことに気付くというのはよくあることです。学習では、単に知識を頭に詰め込むのでなく、事柄を理解して、なおかつ、その事柄のポイントを認識して、自分の頭の中に事柄を再構成しなければいけないのですね。eラーニングのコンテンツ作りを任せると、学生は自分の理解の不確かさを認識して、学ぼう、いや、理解しようとします。頭を使って再構成します。頭に入ります。

 ある大学の先生は「問題作成ソフト」を作って学生に問題を作らせたら、学力が上がったと話していました。大学生に高校や中学で教えさせると、学力や理解度が上がるという例はたくさんあります。大学生だけでなく、小中高校でも、後輩、年下に教えさせると、学習効果があるという話はいくつも聞きました。「教えることが最高の学び」と言う大学の先生もいます。
 
 「詰め込み教育」がよくないのは、暗記力を鍛えるだけで、知識が頭の中で再構成されないからですね。そういう知識は、あまり役に立ちません。医系大学の教授が「今の学生は知識があっても、それがつながらない。だから病気や患者の状態が理解できない」と嘆いていました。大学入試は18歳ころの、暗記力を試すものになっています。それでいいのかな?と思います。

 宇治原さんも、たくさん本を読んで勉強しているから、多くの問題が作れるので、そのことを忘れてはいけませんが、詰め込むだけで、表現しない教育・学習方法はダメなのでしょう。

 今の子ども、若者はコミュニケーションが下手とよく言われます。ゲームばかりで人と話をしないとも言われます。それは表現できなくなっていることでしょう。かなり、やばいのかもしれません。
posted by 平野秋一郎 at 20:01| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月20日

ICT活用の道しるべ

 教育工学研究協議会(JAET)の全国大会に参加しました。JAETはJapan Association for Educational Technologyの略、つまり教育工学研究を通して、教育の向上を目指す団体です。毎年開かれる全国大会では、ICTを活用した教育、情報教育の多くの研究発表や教育実践が発表されます。

◇旭

 今回の会場は千葉県旭市。銚子の近く、九十九里浜に面するところで、伊藤忠良市長があいさつで「駅を降りて、こんなところで大会が出来るのか、とお思いになったでしょう」(はい、思いました)と言うくらい鄙びたところです。ところが、ここで1984年に第10回の全国大会が開かれています。20年以上前、CAIもそんなに広まっていないころから、ICTに目を向け実践を進めていたわけで、すごい人はいるもんだと驚きました。

◇右往左往
 
 大会では、100を超える発表がありました。これを11の分科会で一斉に行います。1つの発表が15分、移動時間5分なので、参加者は時間割を手に、会場(旭市立中央小学校)を走り回ります。部屋を間違えて遅れたり、行ったら満員だったりと、右往左往しました。いろいろ聞きたいのに、効率よく走り回っても10分の1しか聞けないのですね。

 というわけで、聞いた発表は多くはありませんでしたが、その範囲で言えば、ICTをこう使ったら、こういう授業が出来ましたという単なる実践報告でなく、実践の意味付けや授業全体の中でのICTの活用の効果を意識した点を強く感じました。特に興味深かったのは、尼崎市立成文小学校の島田佳幸教諭の発表「情報活用能力の育成について〜デジタル画像の活用による教材化と実践〜」でした。

◇授業を見据える

 島田先生のグループは、デジタル画像を授業の場面やねらいに合わせて、どのように使ったら児童のどんな力を育てられるか明らかにする研究です。分析の方法が綿密です。デジタル画像の特性を「提示性」「加工性」「保存性」など6つに分類し、同時に授業の場面に即して「身につけさせたい力」を明確にして、授業の場面、場面で教員に必要な画像活用スキルと効果を示そうという意欲的な研究です。授業でのデジタル画像りようにつてい、目を凝らして見たというような研究です。15分の説明では、全容を理解できませんでしたが、この方法で多くの事例を収集、分析して提示すれば、多くの教員の参考になるのではないかと思いました。

 授業の内容も、授業のやり方も、ICTの機能も、児童生徒の習熟度や意欲もさまざまです。その多くの要素を考慮して、よい組み合わせを見つけなければ、よいICTの活用は出来ません。今は、熱心な先生が知恵や工夫、勘を動員して、ICT活用を実践している段階にあるように思います。ICTは使ってみたいけれど、知恵を絞り、工夫をし、勘を働かせる時間はない、あるいは、どこにどう使ったらいいのか分からないから使えないという先生が多いのではないか、と思います。島田先生のグループの調査では、デジカメを使える、デジタル画像をパソコンに取り込める先生は結構いるという印象を受けました。今やICT機器は身の周りにあり、生活では使っているのだから、当たり前とも思いますが、「授業で」となると、身構えたり、躊躇したりする先生が多いのでしょう。

◇やればできる

 ちょっと背中を押してあげればやれる、やればできるという先生が増えていると思います。その時、こんな授業では、この機能をこんな風に使うと、こんな効果が期待できるという案内があればいいのではないかと思います。単元とねらいなどを入力すると、お勧めの使い方が出てきて、実践事例の報告書やビデオも見られる、そんなデータがあれば面白いのにと思います。それを自分の授業に合わせてアレンジして使ってみる。初めての先生はまず、真似してみて、徐々に自分のものにしていくということでもいいでしょう。道しるべがあれば、新しい道を行く不安や負担は少なくなります。

 島田先生のグループの研究と実践は、そんな期待を抱かせるものでした。
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2007年04月02日

にぎやかコンサート

◇マタイ受難曲

 3月31日、錦糸町の「すみだトリフォニーホール」でバッハの「マタイ受難曲」の演奏会がありました。「マタイ」はCDでは何回か聴いていますが、生の演奏は見たことがありません。イエスとピラトの対話、怒る群集、悲しむ人たちのダイナミズム、CDだけでは汲み取れない動きを見たいと思っていたので、「あそこは、こんな感じなんだ」と分かり、曲の全体が見えてとても心に残る演奏会でした。

 同時に、こんなコンサートもあるんだと驚き、楽しくなりました。にぎやかというか、おかしいというか、そんな演奏会です。演奏が始まってから靴音高く、入ってくる人がいます。「マタイ」は音楽による壮大な叙事詩で、演奏時間は休憩を挟んで3時間を超えます。イエスとピラトの対話をはじめ、膨大な詩が流れます。演奏はドイツ語なので、20ページを超える対訳の冊子が配られました。私は老眼で、めがねをかけるのが面倒なので見ませんが、多くの人は冊子を参照しながら聴いています。1800人を収容できる大ホールに、ほぼ満員の人。その多くが同時に冊子のページをめくるので、鳥が一斉に飛び立つような音がします。寝ていても、今、演奏しているところが冊子のどこなのか迷っていても、その「ザーッ」で目が覚めたり、演奏しているところが分かったりするので、便利です。

◇パサッ

 しかし、長大な曲なので、中盤を過ぎると、お休みになる人が増えます。すると、手にした冊子が落ちる、めがねが落ちる。あちこちで「パサッ」「カシャッ」と音がします。段ボール箱を落としたような音まで聞こえました。後半になると、夕飯の支度があるか、席を立つ人がいて、靴音高く出て行く。物を落とす音は相変わらずなので、客席はだんだん緊張感が薄れてくる。すると、咳やくしゃみの音が増え、中には口を覆うこともせずに盛大に咳き込み続ける人もいます。

 最後は圧巻でした。演奏が終わって拍手が鳴り響くと、あちこちでフラッシュがたかれ始めたのです。驚きました。クラシックコンサートでは録音、撮影禁止が普通で、「すみだ」でも開演前に放送で注意を呼びかけていたはずなのに、ケータイ、デジカメがあちこちで光ります。何だかアイドル歌手のコンサートや学芸会やお稽古の発表会のようです。係りの女性が、あたふたと走り回ります。しかし、多勢に無勢。なかなか収まりません。そういえば、児童合唱団が退出するときの拍手が一番大きかったのも、学芸会やお稽古の発表会のようでした。

 と、いろいろありましたが、2000人近い人が「マタイ」をフルで聴いて、年配女性のグループが「きれいな曲でしたね」とうなずき合う様子を見ると、こんな演奏会がしばしばあるといいな、と思えました。いろんな音も驚かされたとはいえ、妙に気取ったタカビーな演奏会よりは好もしいコンサートでした。

◇お願いされても

 冊子には、「お願い」として、「演奏終了後の拍手は指揮者が指揮台から降り、客席に向かってからお願いいたします」とありました。このお願いも無視されましたが、これはお願いの方が無理だと思いました。指揮者は音が聞こえなくなってから(まだ、無音の音が鳴っている、演奏は終わっていないということかもしれないので、私の耳に聞こえなくなってから)、しばし残心を示した後、指揮台上でソリストに立つように促し、ソリストが立ってから、悠然と指揮台を降り、一呼吸思い入れを示してから客席を向きました。長っ。

 演奏に感動し、称えようという気持ちになっている人たちは待ちきれず、拍手をしています。当然だと思います。確かに、余韻も何もなく演奏が終わる以前に「ブラボー」と叫ぶ目立ちたがり、知ったかぶりが迷惑なことは確かですが、今回はそうではありません。素直な拍手です。指揮者の様子では、それがご不満のようでした。しかし、私の少ない経験でも、無音の音を聴こうと聴衆が集中し、弾き終わった演奏家が動いて初めて、みんなが我に帰って割れんばかりの拍手を送った演奏会を聴いたことがあります。とても印象に残っています。形だけの静粛を要請するのはおかしなことです。待ちきれずに拍手する聴衆の気持ちを素直に受け止め、一緒に時間を過ごせたことを指揮者も喜べばいいのにと思ったことでした。
ラベル:おたのしみ
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2007年03月31日

佐川さんのランラン

◇あの人

 日本で最も長くジャイアントパンダの飼育に携わってきた上野動物園の飼育員、佐川義明さんが定年を迎えた、というニュースを見て、一瞬、30年前が蘇りました。あの人、たしか佐川さんだったね。

 79年、上野動物園の講堂は取材記者とカメラマンでいっぱいでした。ランランの死についての記者会見でした。当時は日本中がパンダで大騒ぎ。新聞の社会面では人間の死よりもランランの死が扱いが大きいなんてころでした。飼育責任者への激しい質問が終わった後、ランランの一番そばにいた飼育員が呼ばれました。壇上に上がった若者は大勢の記者におびえたように目を見開きました。そして記者の質問が飛ぶと、一言何かを言って走り去りました。涙を浮かべていたのかも知れません。いじめられた子供が逃げ出していくようでした。それが佐川さんだったと思います。

◇1人

 一番つらかったのは彼でしょう。マスコミはそういう人の表情、一言を欲しがります。多くの人はマイクを向けられると、断る術もなく答えてしまうので、視聴者、読者には、その人が納得して取材を受けたように見えるのでしょうが、本人はそうではなく、つらいことが多いのでしょう。私もそんな質問をぶつけてきました。多少は相手の気持ちを忖度してきたつもりではありますが・・・

 彼の逃走を「そうだよな」と納得していたら、常に思いやりに欠ける上司が「話を取って来い」と私に命じました。仕方なく、パンダ舎に行きました。彼は1人で掃除をしていました。檻越しに何回か呼びかけました。10メートルほどの距離にいる彼は、聞こえない振りをして、怒ったように乱暴に掃除をし続けました。全国の人がランランの死を悲しんでいるけれど、一番つらい思いをしている人なんだ、そう思うとそれ以上声をかけられませんでした。投げつけるようにほうきを使っていた姿を思い出します。

◇透明な一瞬

 あれから30年。佐川さんの「定年」に、同年代の私は、あの時の彼の姿、その時間がとても貴重に思えます。新聞には佐川さんの「涙が止まらなかった。悲しいのを通り越して、悔しくて。緊張と興奮でビールを飲んでも酔わなかった」という言葉が紹介されていました。やはりそうだったのだな、と思うと同時に、今、言葉にできるのは、あのときの彼の気持ちの何分の一だろう。そう思うと切なく、またあの時間、彼といた一瞬がとても透き通った大事な時間に思えます。佐川さん、ありがとうございました。

ラベル:パンダ
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2007年03月27日

本 「なぜ株式投資はもうからないのか」

「なぜ株式投資はもうからないのか」
     保田隆明著 ソフトバンク新書
 

◇投資圧力

 企業はこぞってカードを発行して、リボ払いだ、ローンだと借金を勧める。消費者金融は街角で山ほどティッシュを配り、簡単に借りられますと煽る。保険会社は病気になったらお金がかかりますよと不安がらせ、銀行や証券会社は投信だ、外貨預金だ、カードローンだと商品を並べ、「資産運用しましょう」と呼びかける。挙句の果てに架空請求、キャッチセールス、マルチ商法が忍び寄ってくる。今の世の中、財布を狙う目に囲まれて暮らしているような気になりますね。

 一方、わずかな蓄えを守り、増やさないと、年金も期待できないこのご時勢は不安でしょうがない。でも貯金の利息はご存知のとおり。さて困ったというところへ、「預けてるだけだと、実質、目減りしまっせ」「時代は貯蓄から投資へです」という声が聞こえてくる。書店をのぞくと、「1日15分 資産倍増の株投資」とか「初心者でも1億円儲かる株投資」なんて本が平積みにされていて、見ているうちに「儲かりそうだな」「3割リターンがあれば」「貯金が倍くらいになれば・・・」とだんだんその気になっていく。貯金はダサくて、投資はカッコイイような気にもなる。そんな盛り上がった気分になった時に、保田さんの本はちょうどいい熱冷ましになります。

◇儲からない仕組み

 どうして儲からないか。本書では、銀行や企業の思惑、証券会社が誰を見て商売をしているか、個人投資家の情報デバイド、株価が動きやすい新興市場と上場企業の実態、「独自に得た情報」とか「市場の裏をかく戦略」というシロウトの思い込みの危うさ、などをさまざまな角度から指摘しています。

 読めば読むほど「そうだよな」です。書店で株の本を立ち読みしても、「安く買って高く売る」「割安株を見つける」とかの当たり前のことや、ローソク足だの移動平均線だのと指標のことが書いてあるだけ。つまり儲ける方法ではなく、株価や市場動向の評価、売買判断の仕方を書いている。それを勉強して自分で考えて儲けなさい、と書いている。当たり前だけど。確実にうまい儲け方があるなら、本を書いて他人に教えたりしないよね。お札が増えるマジックで、マジシャンが「ホントに増えるなら、こんなところでしゃべってないで、うちでやってるよ」と笑わせていたのを思い出します。でも、マジックでは笑えても、株だと本気になってしまうんですね。

◇平均リターンは5〜10%

 保田さんは、問題を指摘しながら、極めて大事なことを指摘しています。それは過去30年の東証の日経平均から「株式投資での平均年率リターンは5〜10%」とはじいていることです。これを読めば「1億円」とか「資産倍増」とかは夢想しない方がよい、と冷静に判断できます。保田さんは「最低でも年率30%のリターンは欲しいと思っている人が多いようだ」と指摘しながら、「私は、年率5%のリターンという数字を高いと思っている」と言いきります。そして「一般投資家はこの年率5%というリターンをも実は享受できていない」と指摘し、その理由を明らかにしています。

 本書で面白いのは、一般投資家の不利をはね返す方法として「ウェブ2.0」に期待していることです。保田さんはウェブ2.0で知識、情報の共有化を進め、機関投資家に伍していこう、株式リテラシーを向上させようと提案する。他人の損は自分の儲けと思っている投資家が、進歩的性善説に立って行動するかどうかは疑問ですが、「ウェブ2.0」がもたらすかもしれない文化の転換が起きれば、ありうることかも知れません。
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2007年03月25日

ケータイ小説

◇ベストセラー

「初版30万部」と聞いて驚きました。私の知っている物書きや学者が「初版3000部」程度で喜んでいるからなおさらです。携帯電話で無料ホームページをつくれるサービスを行っている「魔法のiらんど」の鎌田真樹子さんにケータイ小説のことを教えてもらい、そんな世界が広がっていることにびっくりしました。

 ケータイ小説は、「日本ケータイ小説大賞」のホームページを見ると「ケータイで執筆して、ケータイで公開し、ケータイで読ませる‥」と書いてありました。「ケータイで公開」「ケータイで読ませる」は分かるけれど、「ケータイで小説を書く」というのはすごい。私もケータイはメールをしますが、せいぜい30〜40字が限度です。それ以上になるとキーボードが欲しくなります。以前、東大大学院の山内祐平助教授に「今の学生はレポートをケータイで打ってきますよ」と聞かされて、にわかに信じられなかったことを思い出します。
 
 私は右手の親指1本で入力しますが、子供たちや若者は、ゲーム機のように、両手の親指で打つので、速いそうです。彼らが大人になったころにはキーボードは使われなくなっているのかもしれません。

 鎌田さんの話では、「魔法のiランド」で人気のケータイ小説は、アクセス数が数百万から千数百万。それだけたくさんの読者がいるということ。しかも、連載が終わってから、単行本になって、それがまた数十万部、多いものでは百万部を超える発行部数。そこらの本をはるかに上回ります。「ホントかな?」と日販のランキングを見たら、ケータイ小説が堂々上位に並んでいました。1冊1000円程度ですから、印税は数千万円から1億数千万円になるのではないでしょうか。作者は10代の女性たち。すごい!

◇不思議な味わい

 数冊買って読んでみました。またびっくりです。文章は小説というより、シナリオですね。ト書きと会話でつづられている。状況説明的な文章もあるけれど、ほとんど会話で成り立っています。登場する少年、少女たちのイメージや彼らが活動する環境もほとんど書かれていません。友人の部屋、公園や道、自室など場面は変わりますが、それらは記号のように実感がなく、ただ少年、少女の言葉だけで世界が作られています。学校は出てきません。親が登場する小説もありますが、ほとんど点景ですね。小説の関心は、男と女の感情の交錯だけのようです。中にはレイプや援助交際、妊娠などの味付けもありますが、ほとんどは友人や異性の友達との気持ちのやり取りが描かれるだけです。行動も感情の反映でしかありません。私は読み通すのが大変でしたが、ケータイで少しずつ読む形だと読めるのかもしれません。

 でも、小説には、若者の純情さ、一途な気持ちが出ていて、そうした心がいじらしくも感じられました。異性にあこがれ、心を通わせるのは若者を最大の関心事で、その気持ちは私たちの若いころと変わらないようです。しかし、その気持ち、若者の感情の動きを表現し、公開する若者が増えているのは、やはりウェブの力でしょう。これからはこのような表現や創作がますます増えるのでしょう。

 鎌田さんの話で印象的だったのは、「今まで本をちゃんと読んだことがなかったけれど、ケータイ小説の単行本で初めて1冊読み通した」と話す高校生がいたということでした。「本を読め」と親や教員は言います。読書感想文コンクールでは、相変わらず芥川やヘッセといった昔の“名作”が多く取り上げられています。でも、感情移入しながらケータイ小説を読んでいる多くの少年、少女がいます。感想文用の読書は自分の読書なのでしょうか。彼らの気持ちを知るために、親や教員もケータイ小説を読んで見たらよいと思います。
posted by 平野秋一郎 at 18:38| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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